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天台宗の開祖「最澄」 松原市地域密着の葬儀場 家族葬ホールいこい

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2022/10/21

天台宗の開祖「最澄」のご紹介

天台宗の開祖として有名な最澄(さいちょう)。まずは、彼の生涯を誕生から順を追って紹介します。最澄の誕生に関しては諸説あります。最有力視されているのが、767年に近江国(おうみのくに/現在の滋賀県)の生源寺(しょうげんじ)付近で生まれた説です。子どもに恵まれなかった両親が、比叡山(ひえいざん)の神様にお願いして授かったのが最澄だそうです。誕生後、最澄は「広野(ひろの)」と名付けられました。最澄は12、13歳頃に出家し、近江国の国分寺に入門し、行表(ぎょうひょう)法師の弟子となりました。14歳で「最澄」という名をもらい、19歳のときに東大寺で正式な僧になります。それから数年、比叡山にこもって修行するようになり「願文(がんもん)」を記しました。願文とは、修行などをする際の決意や、神様に対する願いなどを記す文章のことです。最澄が記した願文には、「仏になるための教えを体解(たいげ)するまで山を下りない」といった、強い決意が記されていました。最澄は、若い頃から既に高い目標を持っていたのです。

比叡山で修業を続けていた最澄は、797年に桓武天皇(かんむてんのう)の「内供奉(ないぐぶ)」に選ばれました。内供奉とは、天皇に仕えてその安寧を祈り、看病をしたり、僧侶の集まりの時にお経を読んだりする役職のこと。その後、今でいう留学生にあたる「還学生(げんがくしょう)」に選ばれ、804年に「遣唐使(けんとうし)」として中国に派遣されました。
遣唐使とは、7世紀から9世紀の中国の王朝・唐への使節団員のことです。当時の最先端である中国の文化などを日本に持ち帰ることを目的に組織されました。最澄ら遣唐使は、4隻の船に分かれて中国に向かうも、暴風雨で船は難航。最終的に中国にたどり着けたのは、4隻のうち2隻だけでした。
最澄は中国で天台教学を学んだ他、禅の教えや密教の伝法を受け、数か月後に日本に帰国しています。

最澄が帰国した日本は、桓武天皇が病に伏せている危機的な状況でした。このとき、最澄が中国から持ち帰った密教が人々から注目されます。
密教とは、仏教の一つの考え方で、大日如来(だいにちにょらい)を本尊としています。密教は「最後まで諦めないこと」を教えにしているため、最澄が祈祷をすることで桓武天皇の病が治るのでは、と期待されたのです。
805年に帰朝してすぐに、桓武天皇の命で、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の儀式のひとつ“潅頂”を授けました。
また、最新の密教を持ち帰った最澄ですが、自らが極めたいと願い学んだ天台教学の教えをも日本に広めるため、新たな宗派の設立許可を桓武天皇に願います。これまでの働きが認められ、806年1月26日、最澄の悲願であった天台宗が開宗されました。その後も最澄は、人々に天台宗の教えを説き続けました。

822年5月、最澄は自らの死期を悟り、弟子に遺言を伝えています。弟子に伝えられた主な内容は、「私が死んでも喪に服す必要はない。日本を守るために、これからも毎日お経を読み続けるように」というもの。
遺言を残した翌月の6月4日、最澄は56歳で遷化(せんげ)しました。遷化とは、高僧がこの世を去ることを意味します。彼の死を惜しんだ当時の天皇、嵯峨天皇(さがてんのう)によって、「比叡山寺」は「延暦寺」という寺号を授けられました。最澄の命日には、延暦寺を始めとした全国の天台宗寺院で「山家会(さんげえ)」という法要が現在もおこなわれています。

 

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